「お?」
素っ頓狂な声を上げたのは、私の良人である岡崎朋也だった。
私たちは朋也のお父さんが住んでいる家にいた。顔を出しに行くついでに、少し掃除も手伝わせてもらっているところだった。居間、台所、廊下と綺麗にしていき、行き着いたのが朋也の部屋だった。ベッドの下を整理していると、小さな小箱を朋也が見つけたのだった。
「ん?何だそれは」
「さぁ……」
開けてみると、仲には結構しゃれたデザインのペンダントが入っていた。
「誰かからもらったのか、朋也?」
「……」
真剣なまなざしで、朋也はそれを眺めていたが、やがて「ああ」と呟いた。
「……あの時のか」
「あの時の?」
そう聞いても、朋也は少し寂しげに笑っただけだった。
あの日、届かなかったもの
自然と目が覚めた。
昔は二時限目三時限目に登校するのが当たり前だったのに、今では否応なくこの時間に起きてしまう。
余計な考えが浮かぶ前に、俺はベッドから出て、そして
見てしまった。
見るつもりなんてなかったのに。気づきたくはなかったのに。
「……」
少しして、俺は壁にかかっていたカレンダーを乱暴に引きずり下ろした。結構派手な音がしたと思う。もしかすると親父を起こしたかもしれない。でも、だからどうなんだ。どうでもよかった。
久しぶりにむしゃくしゃした気分だった。憤りが胸の中で渦巻いていて、逃げ場が見つからずにそのまま澱となって溜まっていく。そう言えば、ここのところ喜怒哀楽そのものがさほど鮮明に感じられなかった気がする。
登校しながら、自然と考えてしまった。喜ぶだろうか、やはり。こんな俺からでも、嬉しく思うだろうか。
馬鹿な。
今さら、何を気取ってる。あいつは、俺なんかとそもそも出会うべきじゃなかった。未練がましく贈り物をしても、気味悪がられるだけだろう。そんな思いを秋の寒さと一緒に振い落しながら、俺は階段を上った。
教室の扉を開くと、藤林がいた。
「あ、岡崎君……おはようございます」
「よう」
「……しなくなりましたね、遅刻も欠席も」
「ああ。よかったな藤林。これで俺のせいで叱られずに済むぞ」
「そんな……そんなつもりで言ったんじゃないです」
俯きながら、悲しげに藤林が言った。
「……悪い」
わかってる。演劇部に顔を出すようになってから、今まで知りもしなかった連中のことを、俺はだんだんと理解し始めてきた。藤林は、よく知らないが俺の心配をしてくれているようだった。委員長でなくても、恐らくはそう考えただろう。
「あの」
机にカバンを置くと、藤林が躊躇いがちに声をかけてきた。
「岡崎君、大丈夫ですか?何だか無理してませんか」
「無理?」
「その……ちょっとピリピリしていそうです」
余計なお世話だ、と昔なら言ったんだろうな。あるいは皮肉の一つや二つ。だけど、今は言う気になれなかった。人を知ってしまうと、やたらとそういうことは言えなくなるものらしい。
「悪い、俺、ちょっと課題提出してくるわ」
引き留めようとした藤林の脇を抜けて、俺は職員室に歩いて行った。
「んぐぅうううううううう、しっかし、お前、もう少し早くやってりゃ何とかなったんだぞ?」
乾が心底残念そうにこぼした。はぁ、としか答えようがない。
何とか、な。
もし俺がもう少し早く頑張ってりゃ、いろいろ変わったんだろうか。普通の生徒として扱われたんだろうか。あいつの
苦さが口に広がる前に、俺は職員室を後にした。いいタイミングで予鈴が鳴る。
この生活パターンに慣れてきて、一つだけよかったと思うことがある。無駄なことを考える暇もないということだった。登校して、授業を真面目に追って、昼飯を食って、また授業。そして帰って出された課題をやれば、いつの間にか十二時過ぎになっていた。忌み嫌っていた時間割の中に、俺はいつの間にか奇妙な安堵感すらも感じていた。
三時間目になって、ようやく隣の席が埋まった。
「よう」
「ああ」
ん?と春原が頭をもたげた。
「岡崎、どうかしたの?」
「別に。藤林も同じこと聞いてたけどな」
「椋ちゃんがねぇ……ま、今の岡崎見てりゃ、わかる奴はわかるさ」
「そのわかる奴、のうちにお前も入るのか?」
「親友じゃん、僕ら」
「え?」
「……その真に迫った『え?』って、結構ムカつくんだけど」
「いや、だって、お前、友達いたのか?」
「いるよっ!つーか岡崎、お前僕の親友だろっ?!」
「違うよっ?!」
「……お願いします。下僕でも何でもいいから友達ってことにしておいて下さい」
ひとしきり笑うと、春原は誰にも聞こえないような声で俺に言った。
「……明後日だよね」
「……誰から聞いたんだよ」
「下級生が騒いでたからさ、盗み聞きしたんだよ」
「……ああ」
「どうすんの?」
「どうするも何も、関係ないだろ、もう」
「……そだね」
秋の青空が、寂しく感じられた。校門の、特に今は葉っぱも落ち始めている木とかを極力避けて、俺は辺りを見渡した。
「放課後、部室?」
「……そうだな」
「渚ちゃん、今日も元気だといいね」
「ああ」
古河渚。演劇部の部長で、ここのところ少し体調を崩していた。一週間前に少し休んだが、また顔を出すようになっていた。これ以上悪化しないといいのだが。
「それより、次なんだっけ」
「現国」
「うわ、即答だよ……あーあ、一緒に馬鹿やってた朋也君はどこいっちゃったのかねぇ」
春原が茶化すのと、教師が入ってきたのはほぼ同時だった。
「……すみません」
「気にすることないわよ。幸村先生だって忙しいんだし」
せっかく古河が元気に登校してきていても、顧問が不在なら活動は基本的に停止だった。
「そう言えば朋也、あんたちゃんと授業に付いてってんの?」
「一応な。結構いろんな所がチンプンカンプンだけどな」
「やっぱ岡崎に勉強なんて似合わないって」
春原が笑うが、すぐに杏にでこぴんされる。
「あんたもへらへら笑ってないで、進路とか考えなさいよ」
「考えたさ!僕の夢ってのはね……」
お前に夢なんてあったのか。
「それって明日がある者の言う言葉よね」
「僕にだって明日ぐらいあるよっ!」
「あったのか?」
「そんなびっくりした風に言うなよ!」
「あったのか……」
「……ものすごく気落ちした風に言われても困るんですけど」
「で?馬鹿でお先真っ暗なヘタレ中途半端ヤンキーのアホ原君の夢って、何なの?」
いい加減さっさとすすめ、と言わんばかりに杏が言う。
「よく聞いてくれたっ!僕の夢はね、モデルになることさっ!!」
……
……
「よく聞け古河。世の中アホの子は許されてもな、ああいうアホになることだけは許されないんだ」
「あ、はい……あの、何で私に教えてくれるんですか」
「いや……何となく」
「僕はまじめだよっ!ほら、僕って結構ルックスいいし、イケてるし、超クールだし」
「あんたは妄想と現実のミックスがめちゃくちゃで、半分イッちゃってるし、超フールなだけ」
「めちゃくちゃひどいっすねぇえええ!!」
しかしあくまでもクールに反応する杏。
「まあでも、有名人になれないわけじゃないわよ」
「え?何々?」
春原は顔を明るくして杏に寄った。
「それって、メディアでもホットショット?」
「ホットスポットでしょ。まあ、そうよね、週刊誌やテレビには顔を出すわね」
「すげえじゃん!何なのそのドリームジャブ?」
ジョブと言いたいらしい。
「それはね……」
「それは?」
「お笑い芸人。もちろん馬鹿な方面で」
……
「あの、それって僕のこと馬鹿にしてる?」
「やーね、ただあんたの性分を知り尽くしてるだけよ」
「春原君、ライバルなの」
ことみが少しむっとした顔で春原を見た。
「大丈夫よことみ。こいつなら途中で薬やって逮捕されるから」
「めちゃくちゃひどいっすねっ!めちゃくちゃひどいっすよっ!大事だから二回言ったよっ!!」
しばらくだべった後、俺たちは解散した。廊下の向こう、遠いどこかの部屋から、金管楽器の音が聞こえた。
グラウンドを横切りながら、何の気もなしに振り返った。校舎の二階に、明かりの灯った部屋が見えた。昔はよく校門のところに立って見上げていた部屋だった。
今だけならいいのかもしれない。
今だけなら、あいつのことを思い出すことくらい、許されるのかもしれない。
頑張ってほしい。それは、俺の偽らぬ思いだ。頑張って、どんどん上に進んで、期待されて、夢を叶えて。
「朋也」
肩を叩かれる。
「ほら、ぼっとしてないの。あんた、最近頑張ってるんでしょ。風邪なんて引いたらパーよ?」
「ああ……そうだな」
その答えに不満だったのか、俺の見ていた場所を、杏は目で追った。
「あ……」
杏を待たずに歩き出す。数歩歩いて腕を掴まれた。
「待ちなさいよ。ああもうっ、ほんとにあんたは」
「何だよ」
「あのねぇ、変なこと考えてるようだから、言ったげるわ。あんたがどうあがこうが、あの子には届かない」
「……わかってる」
「わかってないっ!」
びしっ、と指を突き付けられた。
「全然わかってないわよ。だから、何をやっても、何も変わらないって思えばいいの。そうなんだったら、好きなことやればいいじゃない」
好きな、こと。
「ダメモトってあるでしょ?匿名でプレゼントなり何なりあげるやり方なんて、いっぱいあるわよ」
「プレゼントって……何の話だよ」
少し苛立たしげに言う。しかし、そんなことで杏は引き下がるはずがない。
「陽平が言ってたわよ。あと二日でしょ?」
何か言い返そうとして、でも何も思いつかないまま、俺は顔を逸らした。
「早く元気出しなさいよ。あんたが辛気臭いと、周りまでやる気なくすんだから」
バンバンと肩を叩かれた。
「それ、俺の悪い肩なんだが」
「あっ、ごっめ〜ん、頭叩いてほしかった?あ、でも、頭の方も悪さはどっこいどっこいよね」
「うるせえな。俺が頭悪いんだったら、春原は何なんだよ」
「……」
口元に手をやって杏が考えたのち
「陽平……あんた……大丈夫よ、みんな見放してもあたしがこき使ってあげるから」
「それって何だ、そこまで酷いのかよ」
あと、最後は同情じゃねぇ。
やれやれ、とため息をつきながら、校門を抜けた。
いろんな店を回った。
花はかさばるだろうし、それに手渡しなんてできないのにそっと置くには目立ちすぎるから、早々に諦めた。あとは小物系になるが、あいつは確かイアリングとかはしていなかったと思う。指輪もなんだか思わせぶりなので却下。そう悩んでたどり着いたのがペンダントだった。
小遣いを貯めるつもりなんてなかったのだが、ゲーセンに行く暇もなく勉強とかをしたおかげで、いつの間にか少しはまともなものが買えるほどはあったらしい。財布とショーウィンドウを睨めっこしながら、ようやく一つを選んで買った。透明なクリスタルガラス(最初は水晶かと思った)と、ブラスでできたペンダントだった。
気づけば、辺りは暗くなっていた。時間が経つのは早いな、と思いながら家に帰り、ふと思い当った。
そう。
あの時、結構真面目にプレゼント選びをしながら、それを受け取って喜ぶ、見ることもないあいつの笑顔を思い浮かべながら
俺は楽しんでいたのだった。
靴箱。机。何なら知らない奴を捕まえてでも。
とにかく顔を合わせずに渡す方法は、杏の言ったとおりいろいろあった。
それを手にしたとき、あいつはどう思うだろうか。
びっくりするだろうか。気味悪がる……だろうか。それとも喜んでくれるだろうか。
まさか、俺からだとは思わないだろうな。あいつと一緒だった時、そんなことはしてやった記憶はない。
ブレザーのポケットにある膨らみを意識しすぎていたのだろう。階段から抜けるのが少し早すぎたようだった。
「先輩っ!」
最初に耳についたのは、女子の黄色い声。ふと見上げると、ショートヘアの下級生が、廊下を半ば駈け出しながら、廊下の反対側の教室に向かっていた。
「……廊下を走るのは、あまり勧められないな」
相変わらずの口調とため息で、あいつはそこにいた。
手には既に、幾つかの箱やら袋やらがあった。傍には、同級生が二人、笑いながら立っていた。
「お誕生日、おめでとうございますっ」
「まただね。智代ったら人気者だしね」
「坂上さんは、みんなの憧れだもの。今日はもう引っ張りだこよねぇ」
そのまま、俺は一気に階段を駆け上がった。できるだけ音をたてず、できるだけ早く。
予鈴が聞こえたが、さすがに今日だけは授業を受ける気がしなかった。そのまま駆け上って、そして屋上に出た。
誰もいない、青空と風と雲だけの空間。息を整えると、俺はそのまま寝転がり、片腕の袖で太陽の光から眼を隠した。
「だっせぇ……」
誰にともなくこぼす。本当に、何もかもが馬鹿馬鹿しかった。この数日間の自分が、恐ろしく滑稽に見えた。
今でも遅くないかもしれない。プレゼントを置いてくるんだったら、まだできる。
でも、もう渡したいという気はなくなっていた。
あいつは、友人や後輩に囲まれてるあいつは、あまりにも遠くて、輝いていて、高くて
そんな存在に、祝いの言葉なんて安易にかけられるはずもなく、俺はへたり込んでしまったのだった。
「はは……すげえ馬鹿みたいだ」
乾いた笑いと同時に、鼻がつんとくる。頬を、熱い何かが零れ落ちる。
一月にも満たなかった、二人の逢瀬。
それは、傍から見れば奇跡とでも言うべきものなんだろう。
そして俺はどこかでわかっていた。奇跡なんてものは、そう起こるものじゃない。二人がまた一緒に歩くなんてことは、もうない。それだけのことだった。
頬を伝う涙が差すような冷たさを帯びた頃、俺は背伸びをして、階段を下りて行った。
「就活……始めなきゃな」
ぽつりと漏らした。できれば、どこか遠く。駅を一つぐらいは越したところで、あいつとはもう会おうにも会えないところで。
ぱちり、という音がした。
私は目をつぶる。特にする必要とかはないのだろうが、なぜかそうするのが必然的に感じられた。
す、と私の髪が払われる。首筋に冷たい感触。うなじに、暖かい手。それが離れた時、私はゆっくりと目を開いた。
「……何だか照れるな」
それが素直な感想だった。古いデザインで悪い、と朋也は言っていたが、私の首から垂れ下がるこのペンダントは、もうすでに私のお気に入りになっていた。
「ありがとう朋也。大切にするからな」
しかし、朋也は私の顔を呆けたように見ているだけだった。
「何だ、私の顔に何か付いているのか」
「いや……なぁ智代」
「何だ、改まって」
その瞬間、よくわからないのだが、朋也が妙に大人びた笑いを浮かべた。何かが終わった、そんな感じの笑みだった。
「奇跡って、起こるんだな」
「え?」
「いや、奇跡じゃなかったのか?」
「何の話だ?さっきからさっぱり話が見えないんだが」
腕組みをして、首をかしげると、私の肩に右腕を回してきた。
「いや、別に。ただ」
そのまま並んで朋也のベッドに座る。ぎし、とスプリングが軋んだ。
「智代といられるのが一番だな、って思ってさ」
「うん。私も、朋也のそばが一番だ」
肩に回された手を、軽く握る。
「おーい朋也君、智代さん、お茶が入ったんだ」
下から義父さんの声がした。私たちは立ち上がってドアに向かう前に、素早く見つめあい、そして唇を軽く重ねた。
「ありがとう、朋也」
「ああ、どういたしまして」
からり、とクリスタルガラス細工のペンダントが澄んだ音をたてた。